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広島高等裁判所松江支部 昭和51年(お)1号 決定

主文

本件再審請求を棄却する。

理由

第一再審請求の趣旨及び理由

本件再審請求の趣旨及び理由は、弁護人大塚一男外一四名作成の再審請求書及び同弁護人外七名作成の再審請求理由補充書に記載されているとおりであるから、ここにこれらを引用する。

第二確定有罪判決の判断

頭書被告事件のうち本件再審請求に係る殺人・死体遺棄被告事件について、確定有罪判決(広島高等裁判所松江支部昭和四一年(う)第一六号昭和四六年一月二八日判決、以下「確定判決」という。)が認定した事実は、

「被告人は、

(一)  昭和三七年八月一四日ごろ采信一(当時五四年)より立木の共同購入資金として金三五、〇〇〇円を預かったものであるが、そのころ自己の債務の支払に流用するなどしてこれを費消しながら、右采に対しては立木を購入した旨申し向けて同人を欺き、表面を糊塗していたところ、これに気づいた同人より再三にわたって返金を迫られ、同年一〇月七日までに必ず返済して欲しい旨強く要求されるに至ったが、種々詐言を弄して右金員を返済しないため、同月八日午后四時ごろ返金の督促に被告人方を訪れた右采より難詰されて、同人と激しく口論した末、いよいよ同人を殺害しようと決意し、同夜口実を構えて同人を江津市大字郷田星島一〇四〇番地の株式会社山陽パルプ(以下「山パル」と略す。)江津工場苗甫(以下「木屑捨場」という。)に誘い出し、同所において鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器で同人の顔面を強打し、よって間もなく同所において同人を右頬骨々折等に基く脳挫創により死亡するに至らせ、もって右殺害の目的を遂げた後、

(二)  同夜一二時ごろまでの間に、前記の如く殺害した采の死体を附近にあった藁ごもに包んで、その脚部を所携のビニール被覆送電線外皮(昭和三八年押第二号の証三七)で結んだうえ、同所附近に埋没し、もって右采の死体を遺棄し

たものである。」

というものである。

ところで、本件については、請求人の自白がなく、犯行を目撃した者もいないうえ、犯行に用いた兇器も特定されていないという特殊性があるので、本件再審請求に対する判断を示す前に、まず確定判決が請求人を犯人と認めた根拠を要約しておくこととする。

(一) 請求人と采との関係及び采の失踪

采は昭和三七年六月頃広島県可部町から島根県江津市へ単身で赴き、江川で細々と川漁をしていたが、一旦帰省したうえ八月一四日現金等を持って江津市へ戻り、その頃請求人に三万五〇〇〇円を立木購入代金として預けたが、請求人は結局右金員を立木の購入に使用しなかった。采は九月末頃郷里へ帰ろうと決意したが、その頃から江津市周辺で請求人が買受けたと思われる山林を熱心に探し廻わり、やがて同人が立木を購入していない事実が判明するや、同人に騙されたとしてひどく立腹し、同人に強く右金員の返還を請求し、或いは江津市の知人に請求人の不法を訴え、場合によっては警察に告訴すべき態度すら示していた。そして采は、荷物を全部まとめたうえ、一〇月二日それまで借りていた浜吉の家の管理人武田スミノに対し「二、三日して広島へ帰るから、その間荷物をここに置かしてくれ。」と言って同家を立退き、その後数日の間浜吉の家から少し離れた吉川豊二郎方に夜だけ泊めて貰っているうち、同月九日頃から可部町の家族に何の知らせもせず、江津市の知人に挨拶もしないで姿を消し、行方不明となった。

(二) 一〇月七日以降の請求人の山パル木屑捨場での行動

1  一〇月七日(江津中学校で運動会のあった日曜日)の午前一〇時頃及び午後一時ないし三時頃の間に木屑捨場に木屑を拾いに来た多数の者が請求人を目撃しており、当時同人は一人であって木屑拾いの人達に対し「今日は午後から山パルの偉いさんが調査にくるので拾われん。」「明日は何ぼ拾うても良い。」「あれ程いうたのにわからんか、早く帰りなさい。」等と申し向けて追い払うようにしていた。同日午後五時から六時頃にも同じく木屑を拾いに来た者数人によって目撃されているが、そのとき請求人は別の男と一緒で、その男は顔、形が采とそっくりであったことが右目撃者によって確認されている。

2  同月八日早朝木屑捨場の中央の穴付近で請求人が木屑をかきならす作業をしているところを木屑を拾いに来た数人の者によって目撃され、同日午後五時頃野村静枝により請求人が采と思われる男と一緒にいるところを目撃されている。

3  同月九日午前中請求人は木屑捨場中央の穴の両側にある穴に縄を張りめぐらし、これに中止と書いた紙を垂れ下げ、木屑を捨てに来た貨物自動車の運転手を誘導して専ら中央の穴に木屑を捨てるよう指示し、また木屑を拾いに来た人達に対し、木屑捨ての自動車が来たときは、中央の穴に拾てるよう運転手に言ってくれと頼んでいる。

4  同月一〇日以降も請求人は再々木屑捨場にあらわれ、中央の穴へ木屑をかきおろす作業をしているところを目撃され、或いは木屑を拾いに来た者に、木屑を中央の穴へ捨てさせるように依頼している。

(三)  一〇月九日午前一時半頃請求人が悪臭を強くしみこませて帰宅した事実

請求人は、一〇月八日午後五時頃内妻野瀬丑栄に「山パルの仕事があるから早く食事にせよ。」と言い、食事後作業衣に着換え、弁当を持って出て行き、翌九日午前一時半頃帰って来たが、そのとき請求人のズボンの膝から下、ズック靴、シャツの袖口に黒いドベ(汚水によって腐った泥)がついて汚れており、山パル木屑捨場の木屑と同じような悪臭がしていた。請求人は、「命がけの仕事だった。死ぬような仕事で、こんな仕事なら行くのではなかった。続きの仕事があるから明日の朝五時に起こせ。」と言ってすぐ寝てしまったが、その夜は床の中でとても苦しそうにうなされていた。丑栄が午前五時頃に起こすと、請求人はぬれたままの前夜の作業衣をそのまま着て出て行った。

(四)  一〇月九日以後における請求人の不審な行動

1  請求人は、一〇月九日平川種一に対し、采の所有物である川舟一艘を代金九〇〇〇円で売却し、翌一〇日右代金を請求人の家で受領した。

2  請求人は、同月一〇日頃浜吉の家へ赴き、采のあと同家に入居した鍋島トヨノに「采から荷物を送ってくれと頼まれたから、荷物を渡して貰いたい。」と申し向けたが拒否されたので、その頃管理人である武田スミノに同様のことを言って采の荷物の引渡しを要求したが、同人から「若い者が帰ってから来てごせ。」といわれ、再度武田方に赴いた際、武田スミノの娘婿笠原勇に対し「采から葉書がきて、荷物を送ってくれといってきている。」と申し向けたが、肝腎の葉書を所持していなかったため荷物を受けとることができなかった。なお、請求人はその頃吉川豊二郎に対しても「采から葉書がきて、荷物を送ってくれといってきている。」と話し、葉書を手に持ったまま吉川に示したが、同人に手渡していないので、同人は葉書の内容を見ていないことは勿論、采の発信した葉書ということも判然とは確認していない。

3  請求人は、同月一〇日頃竹田柳一に対し、金銭を借りていないのに二万五〇〇〇円を借りたことにし、誰から聞かれてもそのように言ってくれと頼み、請求人名義の同月七日付金二万五〇〇〇円の借用書を差入れ、またその頃佐田尾要に対しても、金銭を借りた事実がないのに、請求人が同月七日同人から二万円を借り、その後返したことにしておいてくれと頼んだ。

4  請求人は、同月一二日頃日通石見江津支店に赴き、采が広島宛に出した川舟用の発動機が既に発送されたかどうかを確め、その際日通の従業員から料金を支払って貰えるかどうかを尋ねられ、着払いにするようにと答えた。

5  請求人は、采が江津市内で所在不明になった頃武田スミノ、吉川豊二郎、平川種一に対し采の行方について、采は金田の飯田のところに稲刈の手伝いに行っているとか、采はいとまごいをして行ったとか、黒松の方にわかめの養殖の話に行っている等、種々の想像的話を真実らしく話している。

(五)  采の死体の発見状況

笠原勇から采の所在について捜査を依頼され、その際世間では請求人が采を殺したのではないかと噂している旨告げられた警察では、請求人の取調を進めると共に、采の行方を江津市内は勿論、郷里等同人が立廻ると思われる個所について細大もらさず調査し、さらに尋ね人として全国の都道府県警察に手配したが行方が判らないでいるうち、前記の如き請求人の山パル木屑捨場での不審な行動が判明し、野瀬丑栄の請求人が深夜ズボンやズック靴に山パル木屑捨場の木屑と同じような悪臭をしみこませて帰宅した旨の供述を得、さらに第三者より警察は山パル木屑捨場の発掘を怠っている旨の通報があった。そこで江津署では最後的な意を決し、一二月三日山パル木屑捨場の中央の穴をトラクター・ショベルをもって発掘したところ、翌四日中央の穴の木屑を三・六メートル余り掘り進み、さらにその底の砂を約七四センチメートル掘ったところに、藁ごもに包まれ、脚部をビニール被覆電線外皮でまかれた采の死体が発見された。その際采の死体の左足(義足)靴先には紙紐が引っかかっていた。

(六)  采の死体解剖の結果

采の死体は一二月四日の解剖時において死後約一か月ないし三か月経過していた。

(七)  証拠物について

1  采の死体の脚部に巻きつけられていたビニール破覆電線外皮及び同人の死体の左足靴先に引っかかっていた紙紐は、請求人の家で物干綱の代り、薪炭のくくり紐として又は自転車の荷台に取付け使用した数名の者が形状、材質(特にビニール被覆電線外皮については縦に裂いた切り目)からみて、請求人の家にあったものと同一物と思われる旨供述し、しかも両者とも采の死体にまきつけられてあった事実を加えて考えれば、両者の同一である蓋然性は極めて高く、証拠上その同一性が認められたとするに十分である。

2  一審判決が本件殺人の兇器であると認めたガンヅメ(松江地方裁判所昭和三八年押第二号の二八、広島高等裁判所松江支部昭和四一年押第四号の二八)については、これに被害者采の血液が付着していることの証明がないことなどいくつかの難点があるので、これを兇器と認めるにはかなり肯定してもよいのではないかと思われる節が存するにも拘らず、なお結局証拠不十分と言わざるを得ない。

(八)  請求人の弁解

請求人は、殺人容疑で取調べを受けながら、兇党の点を除く以上の諸点について、明らかな虚偽の事実をもって弁解し、かつ、虚偽の供述をしたことについて合理的な説明をしていない。

以上(一)ないし(八)の事実等を総合判断すれば、請求人が前記の動機のもとに、鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器を用いて采を殴打殺害し、その死体を遺棄した事実を認めることができる。

第三当裁判所の判断

一  采が昭和三七年一〇月九日(以下特に年を明示しないときは昭和三七年である。)以降も生存していた事実に関する所論について

所論は、確定判決が犯行日であると認定した日である一〇月八日の後にも采が生存していた旨主張し、高山駿爾及び高山春代の弁護人高野孝治に対する各供述調書(写)、右両名の各当審供述並びに藤井建郎作成の回答書二通(写)・一〇月五日付朝日新聞の記事(写)を提出、引用する。

(一)  所論の引用する証拠のうち、高山駿爾及び高山春代の各供述内容は大略次のとおりである。

1 商山駿爾の供述調書

今(昭和四七年九月二一日)から約一〇年前片足が義足で杖を持ったかなり大きな体格の人を散髪したが、その際同人は、県境の方の広島から江津へ来ていて、舟を持ち、人を使い、網を投げて魚をとっていると話していた。その年の一〇月店を休んでどこかへ出かけての帰り、温泉津駅からバスに乗り、法泉町の停留所で下車するとき、その人も下車し、一緒に話しながら店の方へ来た。その際その人は「今日は温泉津の祭で来た。ついでに散髪してほしい。」旨言っていたが、店を休んでいるので断わると、その人は隣の石崎さんの飲み屋へ入って行った。夕方の五時頃であった。その人は石崎方で暫く飲んでいたと思う。温泉津の祭は一〇月八日の夜から一〇日までである。店の定休日は月曜日だが、祭の前日が月曜日であればその日に休まないで、翌日か翌々日に休むことにしている。昭和三七年一〇月八日は月曜日だが祭の前で忙しいので、九日に店を休み、右の人と会ったのは同月九日であると思う。昭和四七年一、二月頃江津の殺人事件の新聞記事を読んだが、その人は采にそっくりであった。

2 高山駿爾の当審供述

采が殺されたという時よりも三か月位前に采に似た人を散髪したことがある。そのほかにも散髪しているかもしれないがはっきりしない。叔母(高山春代)が同人の散髪をしたことがあるか、また、同人と話したりしたことがあるかどうかは知らない。同人は五五歳から六〇歳位で、体格がかなり大きく、どちらかというと筋肉質の男である。義足かどうか及び松葉杖かどうか判然としないが、片足が不自由で杖をついていた。頭髪には縮れ毛その他の癖はなく、角刈のような髪型で二枚刈をし、はげ上ってはいない(なお、二枚刈にすると長さは五ミリメートル位になる。)。ごつごつした彫りが深いような一寸すごみのある顔で、話しぶりはあらっぽくおおげさな言い方であった。同人は、お人好しではないと思うし、朗らかそうな人ともいえない。服装が和服か洋服か、眼鏡をかけていたかどうかは覚えていない。同人は、「広島から江津に来て、江川で人を使って、網を投げて魚をとる商売をしている。」と話していた。その人には、采が殺された年の一〇月に会ったのが最後である。その日の午後四時四〇分頃浜田市から汽車で温泉津駅に着き、バスで帰宅したが、法泉寺町停留所でバスを降りる際、同人と一緒になった。同人が「高山へ散髪に行く。」というので、「今日は休みだからできません。」と言って断わり、同人と別れた。店へ帰って一〇分位して買物に出たところ、同人が隣の石崎食堂で酒を飲んでいるのを見た。店に帰ると二階へ上ったので、同人が店に来たかどうかわからない。その後采が殺されたとの新聞を見て叔母と「あの人ではないだろうか。」と話した。それから九年位過ぎた頃新聞で犯行日が昭和三七年一〇月八日と知っておかしいと思い、「後房市を守る会」に「一〇月八日に殺されたことになっているが、自分はその翌日に采を見た。」と届けた。しかし今考えてみると、采に似た人に最後に会った時その人が「今日は温泉津の祭だろうが。」と言ったのに対し、自分は「もう温泉津の祭はすんだんじゃ。」と答えているので、その人に会ったのは温泉津の祭の後で小浜の祭(一〇月一九日)の前の定休日(月曜日)だったと思う。写真(確定記録三六九丁)を見ても采が写っているかどうかわからない。

3 高山春代の供述調書

今(昭和四七年九月二一日)から一〇年位前に江津の殺人事件が報道されたとき、「うちの店へ来ていたあの人が殺されたそうな。」と家の者達と話合った。店へ来た人が采かどうかはっきりとはわからないが、非常によく似ている。その人は、何回か店に来たことがあるが、片足が義足で杖を持っており、大きな体格、角張った顔つきで、大きな声で話し、オーバーな話し方をする人であった。広島の方から江津に来て、網を投げて魚をとっていると言っていた。最後に会ったのは祭の日の午後四時か五時頃であった。祭というと一〇月八日夜から一〇日までの温泉津の氏神祭と一一月一九日から二一日までのえびす市祭しかない。その人に会ったのはそう寒くない時なので氏神祭の時と思う。その人は駿爾と一緒に店に入って来たが、その日は店が休みであったので散髪を断わると、隣の石崎方へ飲みに行った。昭和三七年一〇月八日は月曜日ではあっても祭の前で忙しいので休まず、代りの休みを九日にとっているはずなので、采らしい人が来たのは一〇月九日と思う。

4 高山春代の当審供述

采が殺されたという年に、采によく似た人を数か月間にわたり月一回位の割合で散髪した。その人は店のお得意さんである。その人はそのほかにも店に再三遊びに立ち寄った。店に来るときは着物姿の方が多かった。またその人が隣の石崎食堂へ行くのを何度も見かけたことがある。同食堂には当時売春婦がいた。その人は酒を飲んで赤い顔をして店に来たこともあり、同食堂では酒を飲んだりしていたものと思う。慰労かたがたではないかと思うが、その人はたびたび温泉津の町に来て温泉に入ったりしており、金も相当使っていたようだ。金に困っている様子は全くなかった。その人は大柄な五〇歳近くの男で、片足が悪く、義足であると聞いたようにも思うが、義足かどうかはっきりとはしないけれども、松葉杖にすがってようやく歩けるような状態だった。散髪屋であるからその人の頭の特徴はよく覚えている。髪は剛毛で濃いが、縮れ毛ではない。はげてはいなかった。顔はどちらかといえば角張っており、頭はとんがり型ではなく二枚刈にしていた。二枚刈にすると髪の長さは二センチメートル位になる。その人は、満州にいたせいか、ごろつきのような言葉であり、大きなどら声みたいで、気が荒く、強い性格の人だと思った。話しぶりも大げさで、冗談ばかり言っていた。その人の話によると、広島生れで江津市に来ており、江川で趣味として投網漁をするほか、山陽パルプ江津工場用地造成工事を請負っているとのことであった。その人と最後に会ったのは、昭和三七年一〇月九日龍御前神社の祭の当日午前一〇時前頃同神社の前であった。その人は着物姿で、左側に松葉杖をついていた。その日午後三時頃店に帰ると、その人が店の中で椅子にかけていた。散髪に来たものと思って、休日だといって断わると、「まあ散髪はいいわい。またいつでも来るけえ。」と言って、石崎食堂へ入って行った。駿爾は五時頃帰って来たが、入れちがいでその人には会っていない。時期ははっきりしないが、采が一〇月八日に殺されたとの新聞記事を見て、九日に見ているのにおかしいなと思った。(確定記録三六九丁の写真を示され、右から二番目の采をさした。)

(二)  右両名が采に似た人物であると供述する人物が真実采であるとすれば、同人が一〇月九日以降も生存していたことになり、確定判決の判断の構成及び確定事件の証拠関係からすると、単に確定判決が認定する本件の犯行日が異なってくるというだけにとどまらず、請求人がその犯人であるとの点についても、多大の疑問が生じてくることは明らかである。そこで右両名の供述内容についてさらに検討をすすめることとする。

右両名の供述する人物と采との同一性に関しては、本件再審手続における請求人側の前記立証に対し、検察官は反証として采の妻及び生前采と交際のあった者の再審請求後に作成された供述調書を提出しているが、まず采に似た人物の存在が全く問題になっていなかった確定事件の控訴審段階までに取調べられた証拠に基づいて、采の人物像を検討してみる。

(1) 発掘された采の死体は、身長が一七〇センチメートル、頭髪の長さが約九センチメートル、左足膝下が義足で、胸に日立ポンプと書いた作業服、ネズミ色の開襟シャツ、淡茶褐色の作業ズボン、黒の短靴等をきちんと身につけ、皮の財布及び現金合計五九三円を所持していた。

(2) 采が鍋島トヨノに預けておいた荷物をみると、寝具、釣・かにとり等の道具、衣類等が整然と荷造りされていたが、衣類の中に和服はなく、現金は二〇〇〇円だけであった。また、スーツケースにはワカメカマボコ、焼魚も入っていた。なお、これらの品物を確認した采の妻ヒデヨは、身体障害者手帳一冊、身体障害者旅行割引券、カーキ色ズボン一枚、カッターシャツ一枚、小型黒色手提鞄一個、小型財布一個、ビニール短靴一足が足りないと話していた。

(3) 采は、明治四〇年一二月一三日生れの男子で、戦前満州で働いていたが、終戦後郷里の広島県安佐郡可部町に引揚げて来た。そして昭和三七年五月頃江津の川で魚がよくとれるときき、江津市へ来て川舟や釣道具等を購入し、江川ですずき釣り、うなぎ取りを始めたが採算がとれず、その日の食事にもこと欠く状態となって、請求人の援助を受けるなどし、同年八月一〇日頃旅費三〇〇円を借金して一旦自宅に帰り、請求人と共同で立木を購入する資金三万五〇〇〇円を含め合計五万九〇〇〇円を調達し、妻には稲刈りが始まる九月末か一〇月初め頃には必ず帰ると言い残して再び江津へ赴き、請求人に三万五〇〇〇円を立木購入代金として渡す一方、同人と共同でかに取りをも始めたが、これも採算がとれず失敗に終った。

このため月額一五〇〇円の家賃並びに水道料及び電気料も滞りがちとなり、一〇月二日にはそれまで間借りしていた浜吉松吉方から立退いて、翌日から同月七日頃まで知人の吉川豊二郎方店舗に寝泊りさせてもらっており、その一、二か月前には、かに代金の受領が遅れたため生活費に窮し、同人から二〇〇〇円借りて急場をしのいでいた状況であり、一〇月六日ないし八日頃塩津達方で食事をしてその代金を支払う際には、現金が二〇〇〇円しかない旨話していた。

(4) 采は、前記のとおり妻に言い残して江津へ出て来て、一〇月三日には寝具等を荷造りし、土産品と思われる焼魚等腐りやすい物をもスーツケースにつめ、これを鍋島トヨノに預けたものであるが、一〇月初め頃には一刻も早く自宅へ帰りたいとの希望を江津における隣人、知人に漏らしている。すなわち、九月末頃には花田節子に対し「やっぱし、山の木を買うことはやめて広島へ帰るから、出した金の半分でもいいからもらって帰りたい。」と漏らし、一〇月四日朝鍋島トヨノに対し「二、三日すりゃ広島へ帰るから荷物を置かせてくれ。」と頼み、その二、三日後にも「もう一寸だから置いてくれ。」と言い、同月初め頃福川秋穂に対し「もめごとがあってモーターを売って帰ろうと思うが、買ってくれんか。モーターを売らな金がない。明日にでも広島に帰ろうと思う。」と話し、同月五日頃塩田とわ子に対し「わしもはよういなないけんだが、明日また一〇時だ一一時だと言って、もらえんときはどうしようか。」とかこつ反面、「広島に待っとるからはようしてはよう帰りたい。吉川氷店に寝泊りして迷惑をかけるのも気の毒だ。いつまで待て、いつまで待て言うて、こがな腹が立つのは生まれてはじめてだ。金さえもらえばいつでも帰る。」と述べ、浜吉方を出て吉川方に三泊した次の朝、平川種一に対し「自分はもう金をもらったら家へ帰りたい。帰りたいのでいろいろあの手この手で催促したが、もうとっても思うようにはかどらんから、警察に話をしておいて帰ろうと思う。」旨述べ、同月七日佐田尾要から王子建設の請負仕事に行くよう勧められたが、「荷造りをしたり、帰る支度をしているから今日でも帰られれば帰ろうと思うからいけません。」と断わり、同月初旬頃津村藤子に請求人が山の金を返してくれないので困っていると訴え、両手首を交叉させて「もうこれにしてしまいますわ。」と警察沙汰にする意向を述べたが、その後「それでもかあちゃんとこに半分でも持って行きたいから。警察に届けたら一文にもならんようになってしまうから。」と嘆息し、毎日のように坂道を上ったり下ったりして、一日二回位は請求人方を訪ねており、浜吉の家を出る前後頃吉川豊二郎に対し「広島へ帰りたい。しかし後さんとの話が解決しないから困る。」と漏らし、同月六日高村セツに対し「後から金をもらったら舟を売って広島のかあちゃんのところへ帰る。」と話していた。

(5) 采は、大柄な肥満体、丸顔で眼鏡をかけ、前額が少しはげ上り、長髪で縮れ毛であった。また同人は、前記のとおり左足が義足であったが、松葉杖その他の杖を使用しないで歩行し、自転車にも乗っていた。

(6) 采は、人と一緒の場合には酒を五合位飲めるが、独りでは飲まず、晩酌もしないで、正月用の酒が余ったときには弟に持って行ってやるほどで、江津において親交のあった者で采が酒を飲んでいるところを見た者はいない。また、采は女遊びをしたこともなく、夫婦関係も円満であった。

(7) 采の人柄について、同人と接触したことのある者はこぞって、明朗で他人から好かれる人、のんきで悪気のない人、やさしい人、正直すぎる位の好人物、善人でだまされやすい人などと評しており、粗暴、気性の荒さをうかがわせるような評価はなされていない。

(8) なお、采は広島を出発する際に和服は持参しなかった。

検察官が再審手続において提出した采ヒデヨ、渡辺三次、笠原勇、山藤ハツヱ、金川クニヱの捜査官に対する各供述調書は、いずれも右に認定した采の人物像を裏づけるとともに、采に関する次の事実をも明らかにしている。

(イ) 広島では散髪したときだけ髪に油をつけ、七分三分に分けていたが、普段は油をつけずもじゃもしゃのばしていた。江津では髪を後側になでた様(オールバック)にしていた。

(ロ) 江津における知人で采が和服を着ているのを見た者はいない。

(ハ) 満州にいたころには取引先の接待だとか同僚とのつきあいだと言ってよく外で酒を飲んで帰って来たが、広島へ引揚げてからは、隣組の寄合で年に二、三回飲むほかは、自宅でも外でも酒を飲んでいない。

(ニ) 平素の話し方は大声でなくおだやかであり、大げさな話し方でもない。

(ホ) 江津における知人で、采が温泉津に知人をもっていることを聞いたり、また温泉津へ行ったことがあるのを知っている者はいない。

(ヘ) 采が持っているのはうなぎ釣り用の延網とかに取り用の網だけで投網はない。

右にみた采の人物像と高山駿爾及び高山春代の述べる采に似た人物とを比較してみると、采が(a)歩行に際し松葉杖等の杖を使用していないのに松葉杖ないし杖を使用していた点(駿爾及び春代の供述調書及び当審供述)、(b)長髪、オールバックで縮れ毛であるのに角刈、二枚刈で縮れ毛その他の癖がない点(駿爾及び春代の当審供述)、(c)丸顔であるのに角張った顔ないしごつごつした顔である点(駿爾及び春代の当審供述)、(d)和服を持参せず江津で買った形跡もないのに着物を着ていた点(春代の当審供述)、(e)所持金が少なく平素金員に窮しており、また独りで酒を飲みに行くことはなかったのに、度々温泉津へ遊びに来て飲酒していた点(春代の当審供述)、(f)昭和三七年一〇月頃には帰省を急いでおり、のんびり江津から温泉津まで祭り見物に出かけて飲酒する余裕はなかったと思われるのにそのようにしている点(駿爾及び春代の供述調書及び当審供述)、その他人柄、話し方等において著しく相違している。

また高山駿爾や高山春代が采に似た人物が酒を飲みに行ったという隣家の石崎食堂経営者石崎豊子は「日時は覚えないが以前同人方の店で二、三度酒を飲んだことのあるチンバの人は身長一五〇センチメートルあまりの小柄で色の黒いあまり人相服装のよくない者であった」旨述べているのである(石崎豊子の検察官に対する昭和五二年二月一〇日付供述調書)。

してみると右駿爾、春代らにおいて采に似ているという人物は、片足が悪く、かつ、広島県から江津へ出て来て江川で魚取りをしている旨話していたとの限度では、采と同様であるところ、本件犯行が新聞で報道され、これによって高山駿爾及び高山春代が事件の発生を知って、両名で話合ったことは同人らが等しく述べるところであるが、すでに述べたとおりの同人らの供述する采に似た人物と采との間に著しい相違があることからすると、片足が悪かったことなどの若干の類似点からして両者を同一人物と錯覚速断したのではないかとも疑われ、またその男が話したという出身地や魚取りに関する点は、新聞に報道された采に関する事項を、長年月経た後になって、散髪に来たという男から聞いた話と混同して供述しているのではないかとの疑問を払拭できない。

以上の諸事情を総合勘案すると、右両名の供述をもって采が一〇月九日以降も生存していたことを疑わせるに足りる証拠ということはできず、また、藤井建郎作成の回答書二通は、温泉津地区における祭礼の日時に関するもの、一〇月五日付新聞記事は、高山駿爾及び高山春代が一〇月九日に采に似た男を見た旨話したことに関するもので、これによって右判断を左右することはできない。

二  一〇月八日午後五時頃請求人及び采と思われる男を野村静枝が目撃したとの事実に関する所論について

再審請求書及び再審請求補充書においては主張していないが、弁護人らは、昭和五三年五月三〇日付事実取調請求書及び意見書において、確定判決が被告人有罪の要として認定しているところの、一〇月八日午後五時頃野村静枝により請求人采がと思われる男と一緒にいるところを目撃されているとの事実は、野村静枝の検察官に対する昭和三七年一二月一四日付供述調書により認定されているところ、右供述調書が信用できないことは、確定記録中の同人に対する尋問調書のほか、新たに提出した同人の司法警察員(三通)及び検察官(二通)に対する各供述調書(写)によって明白である旨主張するので、ここで検討しておくこととするに、同人の供述内容は大要次のとおりである。

1  昭和三七年一二月七日付司法警察員に対する供述調書

一〇月七日には江津中学校の運動会があったが、その午前中に木屑拾いに行き、他の人から「今日の午後は拾いに来てはいけないと言われた。」旨聞いたが、午後にも娘と一緒に拾いに行った。後に娘から「男の人が『昼から来るなと言ったのにまた来たのか。』と言っていた。」と聞いた。娘は日曜日以外は休みではないのでこの日が七日であることに間違いない。翌八日には、近所の人が「木屑を拾いに行ってはいけない。」と話しているのを聞き、午前も午後も行かなかったが、会社の人なら四時を過ぎれば帰るだろうと思い、午後四時頃一人で拾いに行った。小川イシ及び武田シズヨも来ていたように思う。会社の人が良い工合に来ないと思っていると、夕方二人連れの男(一人は足を突っ張るようにして歩いていた。)に木屑拾場にあるコンクリート壁付近で会ったので、怒られると思いすぐに帰った。

2  同月一〇日付司法警察員に対する供述調書

一〇月七日午前中拾いに行ったとき誰かから「今日はいいが、明日は拾いに来られないそうだ。」ということを聞いた。午後娘と一緒に拾いに行った。翌八日午前中は行かなかったが、山パルの偉い人が来ても四時過ぎれば帰っているだろうと思い、午後四時頃一人で拾いに行ったところ、午後五時前後頃請求人と後に写真を見て采とわかった片足の悪い男の二人連れを見た。まだ山パルの人達がいるが、見つかって叱られるといけないと思って帰った。

3  同月一四日付検察官に対する供述調書

一〇月八日午前中拾いに行ったかどうか覚えていないが、午後には行った。拾いに来ていた人達が、「山パルの偉いさんが見回りに来るから来てはいけん、と七日に木屑捨場でぶらぶらしていた人が言っていた。」と話していた。午後五時頃に請求人に似た人と采によく似た片足義足の男の二人連れに会い、山パルの偉いさんが来たのかなと思った。

4  同月二四日付検察官に対する供述調書(三枚綴の分)

一〇月七日午後娘と木屑拾いに行き、四時頃帰ったが、その際誰に対してだか覚えていないが、「行きさんな。」と言ってやったら、その人が「四時過ぎたからよかろうがな。」と言っていた。その後もう一度拾いに行ったかどうか覚えていない。翌八日には午前も午後も拾いに行った。義足の人ともう一人後という人に会っているが、娘と一緒でない時の日暮頃であったことだけは間違いないので、八日ではなかったかと思う。江中運動会の閉会の辞を代表の生徒が拡声機で言っていたのを聞いている。その時娘は側にはいなかった。娘と拾いに行って帰って来てからまた拾いに行っておれば、その時に義足の人と後という人に会っていることになるが、どうも記憶がはっきりしないので八日であったと思っている。

5  同日付検察官に対する供述調書(二枚綴の分)

山パルの偉いさんが来る来るという頃だが、来りゃせんじゃないかと思っていた時に、請求人と義足の人が来た。

6  昭和三八年一月八日付司法警察員に対する供述調書

足の悪い男に木屑捨場で会ったのは一〇月の何日であったか、はっきりしたことは言えない。同月七日は午後娘と行ったが、請求人以外にそのような人はいなかった。請求人が「来てはいけないと言ったのにまた来たか。」と怒った旨を聞いて、午後四時頃に帰り、この日にはもう拾いに行っていないと思う。娘と相談してみたが、娘も私がその日に行っていないと思うということなので、七日には娘と帰ってからはどこにも出ていないように思う。足の悪い男を見たのは娘と拾いに行った日より後のことであるので、私としてはその翌日の午後ではないかと思うが、断言はできない。請求人と采とが連れだってコンクリート台付近から近づいて来るのを見て、昨日怒られているので、怒られてはいけないと思ってすぐに拾うのをやめた。検察官には一〇月七日であったように言ってあったが、これはその日に娘と一度家に帰りまた一人で行ったように思ったからで、娘と話合ってみた結果、その日に娘と帰ってからは家の外に出ていないという結果が出たし、自分もその様に思っているので、初めに警察官に話したように、足の悪い男を見たのは八日であろうと思っている。

7  同年三月一一日付証人尋問調書

一〇月七日には、最初一人で拾いに行き、二度目は午後娘と一緒に行って小川イシ及び武田シズヨに会ったが、その後また行ったかどうかいくら考えても思い出せない。翌八日午後一人で拾いに行った。請求人と殺された人だという足の悪い男が二人コンクリートの塀付近にいるのを見たが、日時は覚えていない。娘と行った後だと思う。偉いさんが来るから来るからというのに何も来りゃせんじゃないかと思っていた時に二人が来た。急いで帰らないと叱られるかと思って帰った。

以上の供述を通覧するに、昭和三七年一二月一四日までは、江津中学校の運動会(これが一〇月七日に開催されたことは明白である)の翌日である八日の午後に一人で木屑拾いに行った際に請求人及び采と思われる男に会った旨断言し、同月七日娘と木屑捨場から帰った後、さらに一人で拾いに行ったか否かについては全く触れていないのに対し、一二月二四日以降は、右両名に会った日時ははっきり覚えていないが、娘と帰った後のことで、一〇月八日ではないかと思う旨及び同月七日娘と帰ってからさらに一人で拾いに行ったかどうか、はっきり覚えていない旨、日時の経過とともに、供述が曖昧になっているのが特徴であるが、それでもなお、前記両名に会ったのは一〇月八日であるとの点は維持されているということができる。もっとも、右供述の転換期にあたる前記4の供述においては、前回話した前記両名に出会ったのは娘と一緒でないときの日暮れであったことは間違いないので一〇月八日でなかったかと思っている旨の供述に引き続き、一〇月八日江津中学校の運動会の閉会の辞を聞いた際娘は側にはいなかったと述べ、さらに前記5のとおり、前記両名に会った際「山パルの偉いさんが来る来るというが来りゃせんじゃないか。」と思っていた旨述べている(この点は7の供述でも同様)のである。記録によれば、請求人が木屑拾いに来る人達に対して、「山パルの偉いさんが来るので拾いに来てはいけない。」旨告げたのは、七日午後に関してであって、八日についてはむしろ自由に拾ってよい旨告げていることが認められるのであるから、右両供述は、結局七日の出来事を八日のこととして述べているのではないかとの疑問が生ずる。

しかしながら、前記4については、前記両名に会ったのが運動会の日であったことを述べたものでないことは明らかであるところ、前記1の供述中において(この点は2の供述でも同様)、静枝自身運動会のあった日で娘が休みの日であったのは一〇月七日であると確認していることに照らすと、「一〇月八日……江津中学校の運動会の……」とある日付はその錯覚によるものと考えられ、運動会のあった日娘と木屑捨場から帰った後さらに一人で拾いにいったか否かが問題であるが、この点については既に触れたとおり前記4の供述で「明確な記憶がない。」と述べられているに止まっているのである。また、前記5の供述についても、同人が山パルの偉いさん云々とのことを聞いたのは人伝てであり、その内容も一定していないことが前記各供述調書及び証人尋問調書を通じて明らかであることに照らすと、前記5の供述内容が直ちに一〇月七日のことを指すものということもできない(野村静枝が前記両名を見たのが一〇月八日であると供述するについて、そのことに格別の利害関係を有しているとは認められないのに、前記1及び2に見られる如く、七日のことは七日のこととして、他の関係者の供述とも合致する供述をしながら、それとは明瞭に区別して、八日には拾いに行ってはいけないと聞いていた(なお、山形クメも八日に同様のことを聞いた旨供述している)ので、午前中には行かず、山パルの人が帰ると思われる午後四時頃になって出かけた旨述べていることも右判断を裏づけるであろう。)。なお、前記6の供述において、「検察官には(前記両名と出会ったのを)一〇月七日であったように言ってあった。」旨述べているのは、検察官調書三通(3ないし5)の記載及び1ないし7の供述の変遷に照らすと、野村静枝の記憶が次第に曖昧になっていったことを示すにすぎないものということができる。

さらに、右各供述を関係者の供述と対比してみるに、野村静枝の娘ほづみは、昭和三七年一二月二四日検察官に対し、「一〇月七日午後三時頃母と木屑拾いに行って小川イシ及び武田シズヨに会い、午後四時過ぎに家に帰ったが、その後もう一度母が拾いに行ったかどうかはっきりしない。」旨述べ、前記6の「娘と話合った結果、その日に娘と帰ってからは家の外に出ていないという結果が出た。」旨の供述と一見矛盾するようにもみえるが、記憶がはっきりしない者同志が話合って、ある程度明確な認識に達することもありえないことではなく、ほづみの右供述があるからといって、静枝の右供述をもって、全くの作りごとであると断定することもできない。さらに、武田シズヨ及び小川イシは、「一〇月七日午後木屑拾いに行って請求人に会い、野村母子に会って一緒に帰ったが、その後午後五時頃再び武田及び小川両名で木屑捨場に行って午後六時近くまでいたところ、請求人及び采に似た男が一緒にいるのを見た。」旨述べるが、午後五時頃行った際には、他の者に会ったことに触れているのに、野村静枝を見かけたか否かについては全く触れず、田中オキは、「同日午後五時頃には木屑捨場に二人の男以外誰も居らず、帰る際に武田及び小川に会った。」旨、田中ツネコは、「同日午後五時半頃行った際には請求人の外に、三人位木屑を拾っている人がいたが名前は覚えておらず、同日午後六時過ぎ頃行った際には、穴の付近にいた請求人と海辺の方から上って来た一人の男のほかには誰もいなかった。」旨供述している。また、武田及び小川は、「八日午後三時頃両名で木屑捨場へ行ってすでに集めておいた木屑を背負って早々に帰ったが、その際には請求人及び采に似た男を見なかった。」と述べ、野村静枝を見たか否かについては全く触れていない。右各供述中一〇月七日に関する部分は、野村静枝が娘と帰宅した後には木屑捨場に行かなかったと思う旨の前記野村静枝の供述を裏づけるものであるし、同月八日に関する武田及び小川の供述は、木屑捨場に到着した時刻が一時間位ずれていることと、右両名が早々に帰宅していることからして、この日の午後五時頃請求人及び采に似た男を見たとの前記野村静枝の供述と矛盾するものではない(もっとも野村静枝は、前記1の供述において「八日の夕方小川及び武田も来ていたように思う。」と述べているのであるが、この部分はすでに述べたところに照らして措信できない。)。さらに、武田及び小川のほかにも一〇月七日に請求人と采が一緒にいるのを見たと述べる者が存在するが、そうだからといって、翌八日にも右両名が一緒にいるのを見たという野村静枝の供述が誤りであるということにならないことは、理の当然である。そして、一〇月八日午後五時ないし六時頃木屑捨場へ行ったことは、請求人自身も一旦は認めたところである。

なお、花田節子及び花田岩男は、「八日の午後四時ないし五時頃請求人と采とが請求人方で口論しているのを聞いた。」旨供述するが、右両名及び野村静枝の供述する時刻がいずれも感じに基づくもので正確性に欠けると思われることと、請求人方と木屑捨場の距離がそれ程あるわけではなく、自転車を用いれば左程時間を要しないこと(請求人が本件当時自転車を使用していたことは記録上明らかである。)に照らすと、右各供述があるからといって、前記野村の供述の信用性に影響を及ぼすものではない。

以上のとおりであるので、弁護人ら提出の前記各証拠によっては、野村静枝が一〇月八日午後五時頃木屑捨場で請求人と采に似た男とが一緒にいるのを目撃したとの確定判決の認定に合理的な疑いを生ぜしめることはできないというべきである。

三  兇器に関する所論について

所論は、確定判決が本件殺人の兇器を「鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器」と認定したのは誤りであり、真の兇器は鉄製火かき棒である旨主張し、右火かき棒のほか、助川義寛作成の鑑定書・鑑定書補足説明書・意見書、同人の当審供述、弁護士細見茂作成の報告書を引用する。

そこで検討するに、右火かき棒は柄部の直径約二・一センチメートル、全長約二〇三センチメートル、重量約六・八キログラムである(当庁裁判所書記官作成の計量報告書)ところ、助川義寛作成の鑑定書・鑑定書補足説明書・意見書、同人の当審供述によれば、采の致命傷である頭蓋骨に存する損傷は、鑑定人岡田吉郎作成の昭和三七年一二月二七日付鑑定書・意見書、同人の確定記録中の供述・当審供述にあるような数回の打撃によって生じたものではなく、骨折片の形状、配列等の状態からみて一撃によって生じたものとみるのが妥当であり、押収に係るガンヅメによって作ることも可能であるが、前記火かき棒による方がよりその可能性が強いというのである。右の一撃説には聴くべき点が多いが、本件で問題とすべきは、前記損傷が一撃によって生じたものか、多数の打撃によって生じたかの点ではなく、ガンヅメないしこれに類する兇器によって前記損傷を生ぜしめることが可能か否かの点であって、この点については、助川義寛の前記鑑定書等もその可能性を否定するものではない。ところで、前記のとおり確定判決は、兇器について押収に係るガンヅメであるとは断定せず、かなり曖昧な認定をしているのであるが、その表現からして、右火かき棒のような物を想定していないことは明らかであり、仮に右火かき棒が本件殺人の兇器であるとすれば、火かき棒と請求人との結びつきが明らかにされない以上、請求人の自白はもとより、目撃者の供述等直接の証拠を欠く本件においては、請求人が本件殺人(ひいては死体遺棄)の犯人であることに合理的な疑いが生ずるものといわなければならない。

しかしながら、細見弁護士作成の報告書によると「某から本件殺人の兇器は長さ約一間の鉄製火かき棒で、島根県江津市大字渡津嘉戸の野村忠雄方に隠されたとの話を聞き、昭和四九年九月一八日現地へ赴いて前記火かき棒を発見した。しかし情報提供者の氏名は同人との約束で一切明らかにできない。」というのであり、他に前記火かき棒に采の血痕の付着があるなど、これが本件殺人と如何なる関係があるかを認めるべき資料はない(なお、検察官提出に係る大阪地方検察庁検事正作成の昭和四八年二月二日付「いわゆる江津事件に関する報告書(写)の送付について」と題する書面謄本によれば、受刑中の内藤正司が細見弁護士に対し「友人から頼まれて采の死体を埋めた。兇器は先に三本出ている火かきである。」と話したことが認められるが、話の内容が具体性を欠くうえ、前記火かき棒の先が三本になっていない点で内藤の言うものとは異なるし、そもそも内藤が詐欺の常習者であり、前科の中には新聞報道等によって知った事件を種に、検事、検察事務官、弁護士等虚偽の肩書を使用して、事件の関係者から金員を詐欺した事件も少なからずあることなどから、同人の話の内容自体信用性に乏しいものというほかない。)。してみると、細見弁護士の報告書だけで前記火かき棒と本件殺人との関連性が明らかになったとは到底言えず、兇器としてみた場合、右火かき棒の方が前記ガンヅメよりも、采の頭蓋骨の損傷状況に適合するとしても、そのことだけで右火かき棒の存在をもって請求人に無罪を言い渡すべきことが明らかな証拠であるということはできない。

四  その他

(一)  粉炭製造計画について

所論は、江津市近郊においては木屑を利用した粉炭製造が現実に行われており、采や請求人はそれを知って木屑捨場での粉炭製造を計画し、請求人が一〇月七日以降窯造りのため同所で作業していたにすぎず、同日以降の木屑捨場における請求人の言動は、請求人が采を殺害したことの間接事実とはなりえない旨主張して、河野国雄作成の回答書、同人の弁護人高野孝治に対する供述調書、登記官作成の商業登記簿謄本(各写)を提出している。そして、右各書面によれば、島根県邑智郡邑智町所在の山興商事株式会社は、木材チップの生産販売等の事業を営むかたわら、昭和四四年頃から昭和四七年頃までの間、木材チップを製造する際に生ずる不要物バーク(木の皮)を原料として粉炭を製造していたこと、同会社の近所に住む漆谷義顕は昭和三四年頃から昭和四四年頃まで同様に粉炭を製造し、安野清作は現在でもこれを製造していること、その他浜田市や大田市等にも同様に粉炭を製造している者があること(もっとも、パルプ工場の廃材を原料とする場合は、水分が多いために粉炭製造が困難であること)が認められる。

しかしながら、確定判決は、木屑を原料として粉炭を製造することの能否については全く触れておらず、ただ、請求人が一〇月七日以降における木屑捨場での言動に対する弁解として、采及び木島と称する男らとの間で粉炭を製造する計画があった旨供述しているのに対し、当時山パルにおいては木屑を焼いて粉炭を製造する計画がなかったことなどを理由に、木島らは架空の人物であると断じて、請求人の右弁解を排斥しているにすぎないのである。してみると、粉炭製造の能否やその事業の実在に関する前記証拠があるからといって 確定判決の判断に何ら影響を及ぼすものではない。

(二)  請求人が采に荷物の送付を依頼された事実について

弁護人らは、再審請求書及び再審請求理由補充書においては主張していないが、前記事実取調請求書及び意見書において、確定判決が請求人の不審な行動としてあげる、采の荷物引渡要求や川舟売却等一連の行動が、何ら不審なものではないとして、采の住所氏名を書いた紙片一枚(当庁昭和五二年押第五号の四)を引用する。

右紙片には

「広島県安佐郡可部町

字下町屋

采信一宛」

と記載されているところ、采ヒデヨの供述によれば、右のうち「宛」の字を除き他はすべて采信一の筆跡であることが認められる。

ところで、采ヒデヨは右の供述をするにあたり、捜査官から右紙片を現実に示され、同人の供述調書にはその旨と共に、右紙片の内容がそのまま記載されているのであるから、右供述調書がすでに取調べられている以上、右の文言を記載した紙片の存在だけが問題で紙片の形状、材質等が格別問題となっていない本件では、右紙片自体が新に提出されても、これに刑訴法四三五条六号のいわゆる新規性があるとはいえない。

のみならず、請求人は、右紙片を采からもらったときの状況に関し、「九月末頃荷造りを手伝った際に、『一度広島へ帰ってくる。もし来なかったときは広島の方へ送ってくれ。』と頼まれ、一〇月六日の晩に采が住所を書いてくれた。」、「九月末頃采に二万円渡したとき『一度広島に帰るが四、五日したら帰ってくる。それまで荷物を置いておくから頼む。もし帰って来なかったらこの所に荷物を送ってくれ。』と言って所書きをくれた。」、「一〇月六日吉川氷店で金の清算をした際、何時帰るとは言わなかったが、采が『広島に帰って粉炭をやるについてもう少し金を作って来るが、もしこちらへ帰って来なかったら荷物を送ってくれ。』と言って住所を書いたものをくれた。」と述べるのであるが、請求人はすでに八月中旬に帰省した采宛に電報を打っているので、采の自宅の住所を当然に知っていたこと、右紙片には、請求人が当然読み方を知っていると思われる氏名を含めて、大部分の漢字に仮名をふってあり、采の筆跡でない「宛」の字がわざわざ書き加えられていることなどの事実に照らすと、右紙片は、采が八月に帰省する際に請求人に対して連絡先を知らせるために渡した可能性が強く(采にしてみれば、八月の段階では、山林の売買に関し、帰省中に(請求人が現にしたように)請求人から連絡を受ける必要性を予想しうる状況であったと認められる。)、右紙片が存在するからといって、采から「荷物を送ってくれ。」との葉書を受取ったとの請求人の主張を、数々の疑点があるとして確定判決が排斥したことに合理的な疑いを生ぜしめるものではなく、従って、請求人による采の荷物引渡要求や川舟の売却等の行動が不審であるとした確定判決の判断についても、同様に合理的な疑いを生ぜしめるものではない。

第四結論

以上に考察してきたとおり、弁護人らが刑訴法四三五条六号のいわゆる新規明白な証拠にあたるとして提出、引用したものは、いずれも確定判決の事実認定を覆えすに足りる蓋然性のあるものであるとは認められない。即ち、右各証拠を他の全証拠と総合して検討してみても本件において右事実認定につき合理的な疑いを生ぜしめる余地はない。

よって、本件再審請求は理由がないので、刑訴法四四七条一項によりこれを棄却することとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 藤原吉備彦 裁判官 前川鉄郎 瀬戸正義)

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